知られざる偉人館

様々な有名人、偉人の名前を「お題」として出題してもらい、そこからありもしないエピソードや経歴を即興ででっちあげるというゲームをしています。

スティーブ・ジョブズ

f:id:boomoo_49:20200507210832j:plain


ギリシャ少数民族キーゥチを束ねていたリーダー的存在。(※正確にはリーダーは明確にはおらず、年長者や知識のあるものが束ねているという状態であった。)スティーブはアメリカ、ニューヨークで産まれたが、5歳の頃両親とギリシャ旅行中に大喧嘩をし、警察が出動するほどの大騒動を起こした。その喧騒の中スティーブを見失う。両親は30分ほど捜索をした後、諦めてニューヨークへと帰宅してしまった。見知らぬ地で一人になったスティーブは、両親はもう自分を探しにこないと悟り、一人で生きていくと決心した。森の中で木の実や小動物を獲ってたべていたところを少数民族キーゥチのグループが発見。幸いなことにキーゥチは、他者がいたらどんな者でも手を差し伸べれば必ず天は味方するという言い伝えの元生活していた。

ティーブは、キーウィの2番手であるポリゴジの息子として迎えられ立派に育てられた。

英語を話せたため、他の国の者と対立した際や、貿易の際には重宝された。

ポリゴジが亡くなる前には、スティーブがグループを束ねるようになっていた。

ティーブは、ギリシャの国営新聞に取材された際に

"Happiness depends upon ourselves."

幸せは自分次第である。

という言葉を残した。




小野妹子

f:id:boomoo_49:20200507204432p:plain


大正時代に一世を風靡したモデル。本名小野美智子。芸名の妹子は、同じくモデルで姉の小野昭子の荷物持ちとして撮影現場についてきていたところをカメラマンの菅義偉(後の夫)に気に入られその場で撮影された。その際に菅が「おまえは、妹だね?妹だから妹子ちゃん。小野んちの妹。小野妹子(おののいもこ)だ。」と発したことがきっかけ。

赤玉ポートワインの広告であどけないかわいらしさと、露わになった上半身という衝撃の組み合わせから巷で話題に。

この時、破産寸前だった赤玉ポートワインの赤玉株式会社であったが妹子が広告モデルをしたことにより売り上げが20倍に跳ね上がったという。

妹子は後に姉の昭子以上の知名度と人気を獲得し、姉妹仲は悪化を辿ったということを晩年著書「ワインガールのほんと。」にて話している。

30歳を目前にし、長年専属カメラマンを務めていた義偉に求婚され結婚。娘を1人もうける。

私生活は派手なイメージと裏腹に、つつましく家庭料理を好む地味な生活であったという。

生涯広告モデルや、舞台女優を続けた。


f:id:boomoo_49:20200507205407j:plain

※着飾る妹子(左)と昭子(左)


平塚らいてう

f:id:boomoo_49:20200507202130j:plain

※らいてう。王位継承式にて。


現在の中国大陸にあたる地域にて明の時代の王朝の姫君として生きた男性。実際は日本の一般庶民の位であったが、本人の思い込みが最終的に現実となった。らいてうは長崎県(※詳細不明)にて産まれる。親兄弟の情報は一切不明であり、豚に育てられた、天から突然降りてきたなどという信憑性の低い噂話のみである。

らいてうが歴史書に登場したのは明の「大明太伯書」の第68章である。「海から突如男やも女やも知らぬ人間あらわる。町人拾いてその男らいてうと名付ける。その人間、一切の記憶を持たず我この国のオサの姫君なりと喚き散らす。姫君を亡くして十日ばかりの王、すぐさま城に連れ帰りらいてうに全ての富与えけり。」(日本語訳:戸田奈津子)

らいてうは年齢さえも不明であるが、あるときは22歳、ある時は35歳と言い、添付された王位継承式の写真当時は12歳と発言したという。王はその虚言に何処かで気付いていながらも気付いていないそぶりを見せていた。

王はらいてうを姫君として迎え入れた際、28歳であったため、のちの研究によるとらいてうより20歳以上若かったのではないかという説が有力だ。

また、「大明太白書」第102章によると「らいてうの声は明白にも申し上げると美しいとはいえず、例えるならばトドのような男性の野太い声であった。また、入浴を手伝うものの証言では男性の体であった。」(日本語訳:酒井真奈美) とあるように、らいてうは男性であった。

王が流行病で42歳で亡くなると、らいてうは突然豪華絢爛な衣装を脱ぎ捨てももひき一枚で外へ出てそのまま帰らなかったという。

街の目撃者によると、日本語を流暢に話し、または長崎で漁師をしていたが沖合で船が遭難し明にたどり着いたとき何故か自分は姫君であると確信したと話して回っていたという。



長州力

f:id:boomoo_49:20200507193711j:plain

※カメラを前に睨みを効かせる力


明治初期に数多(あまた)の女を虜にし、異性だけでなく同性までもを手玉にとった遊び人。その狙った獲物は必ず惚れさせるという数多くのエピソードと、福島県出身であることから「福島のやり玉」という異名を持つ。かの有名な明治天皇の初恋の相手、小沢清美をモノにしたという逸話もあるほどだ。力は福島県白川町にて桃農家の両親の元に三男坊として誕生。

比較的裕福な家庭であったが、長男、次男共に貧弱気味であったため両親は付きっきりであった。

そのため、あまり手をかけられずに育ったことから力は寂しさを埋めるためその容姿端麗な顔立ちを生かし小等学校入学前の5歳の頃から町の15歳から18歳の女学生を手玉にとっていた。

熱狂的な力のフアンも多数存在し、力は小等学校の文房具や衣類などは全て女学生から贈られたものを使用し、一度も両親から買い与えられたことはなかった。その後、両親の願いもあり力は働けない兄たちに代わり桃農園を手伝うことに。毎日朝から晩まで桃の木の世話や、桃の加工品作りをしていたため力の体臭は桃同然であった。

そのことがより一層力の魅力を引き立たせたのである。13歳の誕生日を迎えるころには、40人を超える15〜60歳の女たちが取り巻きとして常に存在し、無償で桃農園を手伝い衣食住を共にした。力の体に触れたものは喜びのあまり失神する者もいた。その成果もあり、長州家の桃農園は大繁盛し、もともと70坪ほどの平屋であった家は増築し、女衆も住めるように倍以上の160坪になった。

晩年は、匂いを嗅ぎつけたアフリカの商人がペリーの孫のツテで舶来し、18〜76歳までの計34名のアフリカ人男性が力に求婚した。(※当時同性婚は認められていなかった。)力はその中のサンボと名乗る64歳の男性を妻として迎え入れ事実婚状態になった。同性同士のカップルなど一切認められていなかった時代だったが、村の住民も家族でさえも力の常軌を逸した行動に慣れており反対する者すらいなかったという。残った女衆とアフリカ人男性は全員めかけとなり、71歳で生涯を終えるまでに力は263人もの子を持ったという。

現在でも力はLGBTQの偉人としてアメリカの小学校や、各国のインターナショナルスクールの教科書に掲載されている。(※力の行動は女性・男性軽視という見方もあるため反対運動も行われている。2019年10月時点)


f:id:boomoo_49:20200507200345j:plain

※ 増築した家の一室で誇らしげにカメラを見つめる力


芥川龍之介

f:id:boomoo_49:20200507180455j:plain

※自作の着物を着る龍之介


幕末に特殊な呉服店を流行らせ名を上げた男。武家出身で幼少期は寺子屋へ通い武道と勉学に励んだ。兄の良之助と共に優秀であったが龍之介の日課は他の武家の子供とは一癖違うものであった。寺子屋が終わると大抵の子供はチャンバラ遊びや、かけっこのような遊びに勤しんでいたが、龍之介は密かに母親や、使いの女人の肌着を20着ほど取り出し、台所にある野菜の皮や食材をこすりつけたのちに乾燥させ、何事もなかったかのように箪笥に戻すのであった。しかし、密かな龍之介の趣味は長くは続かなかった。使いの女人のうちの一人タエが龍之介が牛乳を浸して乾燥させた肌着を着たところ、アレルギー反応が出てしまったのであった。町医者が全ての肌着を回収し、検査したところ、すりつぶしたカブ、じゃがいも、玉ねぎ、ナス、卵の殻、豆腐などが全ての肌着に擦り付けられていた。犯人探しが始まり、女衆の部屋に出入りできる者は子供しかおらず龍之介も例外ではなかった。7人の子供が集められ一人一人問い詰められた。いよいよ龍之介の番だ、というときに突然兄の良之助が立ち上がった。こぶしを握りしめながら「やったのはわしじゃ、罰を甘んじて受けよう。」と力強く言った。良之助は龍之介の趣味を知っていたのだった。他の子供に馴染めずにいた龍之介を不憫に思った兄心であった。

その事件があり良之助は武家の長男の座を龍之介に譲り当時最先端であった科学の学問の道へ進んだ。しかし龍之介は趣味を奪われ廃人状態になってしまい破門。またしても心配した良之助は、龍之介の特殊な趣味を生業にすることはできないかと考え、科学的な観点から着物に食物を練り込み染色や香り付をすることを思いつき、自身の財産を全て研究に注ぎ込み良之助86歳、龍之介78歳の時に完成。野菜着物はファッションに敏感な若い武家の娘たちにたちまち人気となった。

龍之介はその頃廃人になって60年以上経っていたため口も聞かずものを食べることも兄任せであったが、野菜や牛乳を着物の生地に練り込むことだけは懸命であった。95歳で死ぬまで一心不乱に練り込み続けたという。


f:id:boomoo_49:20200507183208j:plain

※ナス着物をきる龍之介(93歳)と、じゃがいも着物を着る親戚の芥川松(24歳)



宮沢賢治

f:id:boomoo_49:20200507171450j:plain

※稲を抱える賢治(左)と和子(千歯こき)の世話係ソノコ


対物最愛者(たいぶつせいあいしゃ、Object sexuality)として最古の記録に残る人物。対物性愛者とは人間ではなく、物体に愛情を抱く性的指向である。

賢治は物心ついたときから、幼なじみである河合ハルの両親の農業道具千歯こきに対し特別な感情を抱いていた。常に1つ年上のハルの後ろをついて回っていたため、「ハルの金魚のフンコロケンジ」というあだ名がついていたほどである。誰しもが、賢治はハルに恋心を抱いているものだと思っていた。しかし、賢治の目当てはハルではなくハルの農具小屋にある"千歯こき"であった。14歳になったばかりの春、ハルの父親が農具小屋に入ると信じられない光景を目にした。賢治が上半身裸になり千歯こきを抱きしめていたのである。驚いたハルの父親は「そこで何をしている!」と大声を上げた。賢治もまた驚き「スイマセン!」と土下座した。その騒動の噂がすぐに賢治の両親の元へ届き、家族会議が行われた。問い詰めるとすぐに賢治は「おら、千歯こきを好いとう。好いとるんや!」と俯きながらも力強く答えた。母親は病気がちでやっとできた一人息子であったため大変なショックを受けたが、父親は「よし。」と小さく呟くと立ち上がり河合家へ向かい、父親に「うちの馬、1頭と鶏3羽やるけん。おまんとこの千歯こき譲ってもらえんか?」と直談判したという。晴れて千歯こきが自分のものになった賢治は千歯こきを「和子」と名付け、どこへ行くにも連れていった。また、一層勉学にはげみ、農業大学へ進学。何度も役場へ行き和子との婚姻届を提出したが受理されず悔し涙を流した。晩年は、足腰が弱くなったため、和子の世話係ソノコを雇い、遺書には「ボクノカネスベテ カズコトソノコ二」と書き記した。

(※ 著書「ものしか好かん」1975年 より)



渋沢栄一

f:id:boomoo_49:20200507164552j:plain

※リスの乗り物にまたがる栄一


日本で初めてどんぐりを食した人物。昭和17年、足立区で渋沢家の4男として生を受ける。上に兄が3人、姉が4人おり渋沢家の末の息子。父親は新聞社に勤めていたが強情な性格であったため栄一が誕生して間もなく職を失う。母親は怠惰な生活をしており、地主であり農業を営む岩手の実家からの仕送りで生活していた。そんな中、ほとんど手をかけてもらえなかった栄一は近所にあった梨沼公園で花の蜜を吸ったり、食べられる草を探したりすることが趣味となっていった。兄や姉とは歳が離れていたため一人誕生日に与えられた虫眼鏡を片手に食べられる植物探究に出かけている姿を目撃されている。そんな中、当時どんぐりは「西洋の悪魔の糞(ふん)」という迷信があり誰も手をつけなかったが、栄一はそんなこともつゆ知らず持ち前の探究心と好奇心から5〜6個一気に頬張った。あまりの苦味に吐き出したが、帰宅して就寝前に何故かその味が忘れられず翌日もう一度どんぐりを拾いにいき、味付けをすれば食べられるのではないか?と考え持ち帰る。母親が3週間ほどまえに作ったリンゴジャムが鍋にこびりついていたのでそこに水をいれどんぐりを20個ほど煮て食べ、そこから様々なアレンジレシピを思いつきわずか11歳で祖父母の援助によって「舌鼓を打つ美味いどんぐり料理」という書籍を出版。120万部を売り上げた。現在のどんぐりブームの元祖として知られている。


f:id:boomoo_49:20200507170328j:plain


※栄一の得意料理、胡麻どんぐり